概念という名の概念

何を書くと思いますか?想像してみてください

超絶ハイパーウルトラアルティメットおもしろい話

 

気づきのメモです

定期的に気づいては定期的に忘れていくので文章として残しておくことにしました。

 

物事を自主的に楽しもうとする姿勢、大事じゃないですか?

イメージとしてゲームやるときとかアニメ見るときを思い浮かべてもらえればいいのかなと思います。

 

俺を楽しませてくれよ?みたいな受け身の姿勢ではなく、自分自身から楽しもうとする。楽しい部分を見つけようとする。ひとまずこれは楽しい、と思うことにする。

 

これはつらいことなんだ…と最初から決めつけてたり世間的につまんね~って言われてるからどうせつまんね~んだろうな…と勝手に思っていたり。経緯はいろいろあれど。楽しめるチャンスってのを自分から放棄している可能性、結構あるのでは?と思ったりするのです。

 

例えば、というか自分の話なのですが、何かの体験談を調べたり当事者の話を情報収集するときに苦労した話とか辛い話とかを集めがちなんですよね。

 

これ無意識やってるんですがたぶんあらかじめマイナスな部分を知っておくことでダメージを最小限に抑えようとしてるのかなと思うのですが、プラスな部分も知らないと受けたダメージを回復する手段を知らないまま突っ走ることになる。回復やバフのないRPGって考えただけでもクソゲーでしょ。

 

そう、マイナスな部分しか知らないとそれをクソゲーと認識してしまう。そうなるとこれはつまらないことなんだ、と理解してしまう。そうなると楽しむことは困難になります。仮に楽しいことが散りばめられていたとしても。クソゲーという前提が脳裏にこびりついているがゆえにつまらないことしか目に入らなくなる。感じられなくなる。

 

学校でも仕事でもそうですしSNS上でもそうですがキラキラしてる人たちっているじゃないですが。クソ眩しい人たち。あ~あなんであの人たちはいっつも楽しそうなんだろうなって思うわけです。俺はこんなにも陰で泥を啜りながら生きてるってのに。あの人たちだけ楽しそう。不公平だよなぁとか思ったり。

 

でもたぶん違うんだと思うんです。キラキラした人たちのところに勝手に楽しいことが降ってきてるわけじゃない。キラキラした人たちは、小さいことであっても楽しいことを見逃さない人たち。もしくは楽しいことを自分で生み出せる人たちなんです。きっと。

 

そしてこれは誰にでもできる。はず。そう信じたい。向き不向きはあれど。できると信じたい。とはいってももちろん人類はみな平等ではありませんので(平等だと願うことは大事です)多少なりとも苦しいスタートになる部分もあるかとは思いますが。それでもさ、もっと楽しく生きたいよな、俺たち。

 

もっちろん、無理しすぎはよくないですね!死ぬほど苦しい状況なのにこれは楽しいことなんだ…楽しまなくちゃいけないんだ…ホアアア!!!!!!!って感じで自分を洗脳するとたぶんホントに死にますから。あれ?俺の心、死ゆ?って思ったらやめましょう。

 

ある程度楽しいと信じてみてやっぱ違ぇなって思ったらパッとやめる!この引き際を見極めるのもまた大事。早すぎても楽しさを逃すかもしれないし遅すぎると取り返しがつかなくなるかもしれないし。あれ、これめっちゃムズいこと言ってません?

 

話がごちゃってきました。強引に締めましょう。

 

あなたはこの記事を読んで面白いと思ったでしょうか?

もし面白いと思わなかった場合、「この記事はおもしろいんだぞ!この記事は超絶おもしろいんだぞ!」と思いながら読み返してみてください。それでもなお面白くなかった場合は俺の負けです。ペプシ1000000000万個お前の家に落とす

 

もちろん自分の評価軸を持つことはとても大事ですが、その評価軸がネガティブ寄りだった場合、世の中に落ちてる楽しいことが見えなくなってる可能性があります。損でしょ。道に落ちてる10円玉をたかだか10円玉だろ、と見逃したら実はめっちゃ古くて価値のある実質100000000000000000000億円の価値がある10円玉でした、みたいなことが起こりえる。

 

怖いのがネガティブ寄りを極めてると「別に1000000000000000000000000000億円なんて欲しくありませんでしたけど?」みたいな態度をとってしまったりすること。心の奥底ではめっちゃ欲しかった~~~~~!って叫んでるはずなのに自分の評価軸を信じるという行為を神格化しすぎて自分自身の気持ちに嘘をつき始めたりします。自分を貫くというのは意見を変えないことではなく自分自身の声をちゃんと聴いてあげることなのかもしれませんってホントに何の話なんですかもう締めるっていってるでしょおじいちゃん

 

ということでどうでしょう、この記事の価値は。

10円でしょうか?それとも1000000000000000000000000000兆円でしょうか?

価値を決めるのは他の誰でもない、あなたです。

おもしろいということだけがアイデンティティだった人

思考のメモです

 

例のブログ、と称するには少し日が経ちすぎましたがあの文章を読んで戦慄しました。件の本質とは違う話にはなりますが、文体があまりにも自分に似ていたのです。

 

とにかく自分は面白いんだぞという主張と周りとは違うんだぞという押しつけ。

文章を客観的に見てみると確かに世間の評価に納得していましました。

 

どうしてあのような、そしてこのような文章になってしまうのでしょうか。それを考えた時におそらくですが自分という存在は面白くないといけない、という危機感にも似た固定観念が存在しているのかもしれません。

 

というのもこれは私の話で件のライターの話ではないのですが小学生時代は周りにおもしろい人間だと評価されていました。今思うとそれは笑いを取っていたというより嘲笑に近かったのかもしれませんが、仮にそうだとしても当時の私はその状況をとても嬉しく思っておりどんどん人を笑かそうとしていきました。

 

そして早めに結論から述べておくとタイトルのような状態になります。成長の過程で何も身に着けることなくただおもしろいということだけがアイデンティティとして残ったわけです。そうなると必死におもしろい人になろうとします。おもしろくない人になるということはアイデンティティを失うということ。それは自分自身を失うことを意味します。

 

だからおもしろくならないといけなかったのです。だから変わったことをして人の目を引いて、嘲笑だとしても笑ってもらわないといけなかったのです。

 

ですが、それには限界があります。本来は人を笑わせるためにおもしろいことを言います。つまりそれは人のためです。しかし私の場合は自分自身の存在のため。どこまでいっても自分のための行動でしかない。そうなるとどんどん独りよがりになる。ユーモアも自分の価値が軸になっていく。俺が面白いと思うものが一番で、それをお前らが笑うべきだ、と。

 

そうなると、終わりです。周りの大人は一応笑ってくれますが本当は面白くないという事実を誰も教えてくれない。そんな義理は無いから。だから正せない。でも誰も面白くないと教えてくれなくて愛想笑いしてくれてる状況をウケてると勘違いしてまた変なユーモアが加速する。勢いがヤバすぎてスピードについていけなくなるノリ。内心、的を得てしまっているから変にツッコミきれない自虐ネタ。笑え、笑えという圧が強すぎるがゆえに聞く側、見る側の反応に択が無い。そして周りは愛想笑いし、以下無限ループ。それを99回くらい繰り返すと誰も手を付けられない最強モンスターが完成します。

 

勘違いしたおもしろさのために最強モンスターになるくらいならふつうの人間でいたいと思いました。

 

といったところで件のブログについて件の記事だけでなく他の記事も読んでみたのですが、意外とクセが控えめでした。何故か件の記事だけが異常に本題から遠回りするような文章だしおもしろくしなきゃ!という強迫観念を感じますね。炎上してることを認識して気が動転してどうにかしなきゃヤバイ!みたいな気持ちで書いてしまったのでしょうか。

 

…いやこれ違うかもしれませんスミマセンこれあれですねやっぱり文章の感性が私と似通いすぎてるのでソウルユニゾンしてるだけですね。たぶん普通の人から見たらほかの記事もぜんぶクセが強いのかもしれませんね。

 

本当に問題なのは今回のようなデリケートな問題の釈明記事という場面でユーモアを出そうとしているという点だと思います。謝罪するにも、謝罪せずに自分の意見を述べるにも、どちらにせよ茶化すような場面ではないはずです。こういう場面で敢えて茶化すことを言うのがユーモアだという主張はボボボーボ・ボーボボの世界観じゃない限り通りません。プロのお笑い芸人だからといって葬式で笑かそうとはしてこないでしょう。

 

適材適所、ケースバイケース。私はやはり件の人とソウルユニゾンしているようで件の通常ブログ記事は嫌いではないです。たぶんこういう堅苦しくない文体が好きな人もいるんじゃないかと思います。擁護する気はありませんが。

 

そろそろ締めようかな、と考え始めたところでハッとします。やはりソウルユニゾンしている。最後の最後に何かしらの冗談とかふざけた表現をくっつけてオチを付けようとするんです。いまどんな冗談をくっつけようかなと一生懸命考えていました。上記の通り文章表現は適材適所ですしこの記事は真面目な記事ではないのでそれ自体は悪いことではないとは思いますが、自分自身の常識を常に疑うということを忘れないためにもこれをもって記事を締めさせていただきます。

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

呪印錯誤のエンドレスフォロー

思考のメモです

 

新劇場版は全く見ていないのですが庵野監督のドキュメンタリーをアマプラで見ました。世間で大きく評価されてる作品を生み出したその人を垣間見えることに興味があったからです。

 

(ここから下の話はわたし個人の想像でありご本人がどう思っているかは別です)

 

(そもとして上記ドキュメンタリーを触媒として私の言いたいことを言うだけの記事なのでそこら辺をご了承いただける方だけがこの先に進む資格があります。バッジを8個集めた人だけ通ってください。)

 

(通ったあと扉に向かってのなみのりは大変危険ですのでご遠慮ください)

 

物を作る人間には「これは自分のやりたいことなのか?自分の表現したいものなのか?」という疑念が常について回ります。嘘です。主語が大きかったですね。何かを作る時、私には常にそういう疑念が付いて回っているのです。

 

例えば音楽でいえば思うがままにMIDIを打ち込んだ後にふと前述の疑問が浮かび上がります。流行りに乗せられただけじゃないのか?誰かの真似をしたいだけじゃないのか?そこに自分自身は本当にあるのか?などなど。うるせ~~~~~~って感じですがこの疑問は意外と大事なような気がしていてこれらの声をずっと無視しているといつの日が心がこわれてしまったり創作そのものがつまらなくなってしまうんじゃないかなと思っています。

 

そして、前述の庵野監督はその声を無視せざるを得ない状況に追い込まれていたんじゃないかと勝手に思っています。息抜きに違う作品を作ろうとすればそんなことしてないでエヴァ作れって言われるだろうしエヴァ作っててもはやくエヴァ作れという声が聞こえてくる。地獄でしょ。んでエヴァを作る中で新しいことをしようにも「エヴァらしさ」つまり従来のファンに嫌がられない範囲での新しいことなんてめちゃくちゃ難しいわけで結局息苦しさは解消されない。「エヴァ」という概念はあまりにも強い力で庵野監督を絞めて付けていたんじゃないかと邪推してしまうのです(10000000000000回言いますがこれは私の勝手な想像です)

 

まぁドキュメンタリーのなかで「エヴァをやり直したいとずっと思ってて良いタイミングがたまたま来たから新劇場としてやり直した」みたいなことを仰っていたのでやっぱりちゃんと自分の意志で作ってたのかな、なんて上にいろいろ書き殴ったあとになって思ってるんですが。そうなると上記の話ぜ~~~~~~~~~~~~~~んぶ、パァ!!!!wwwwwwwwwww

 

パァじゃない話しましょうか。最近、とある声優を観測していると普通に本人名義で、特定作品とは関係ない場所に出演しているのに「リアル○○(キャラ名)じゃんwwww」「○○まんまで草」みたいなことを言われているんですね。どんな番組に行ってもキャラクターに関連付けられるようなコメントをされている。まぁいまはそのキャラクターが大変バズっておりますのでわからなくもない。別にオタクのマナーにモノ申す!!!!!!!!フン!!!!!!!!!!!みたいなことをしたいわけじゃないんですが声優本人からしたらそういうのどうなんだろうな~っていうことをぼんやり考えたりしています。

 

上記の声優の話はリアルタイムでわりとバズっている人の話でしたが、過去にバズったことがある人パターンもあり。2021年のいま、10年くらい前にバズった過去キャラクターの話を延々とコメントされている声優を見かけたのです。これはこれで残酷というか「いま」のその人を誰も見ていないような気がしてすごく寂しくなってしまったのです。

 

○○の人、と認識されること。

○○の人、と呼称されること。

それが本人にとってどんな意味を持つのか。

 

私だったらそれは「呪い」のように思えてしまうな~とぽけ~~~~~~~っと考えていました。世間に自分の可能性を限定されているような。そこにいなさい、そう在りなさいと言われているような。もちろんそれをプラスに思える人もいる思うしなんならこんなジュクジュクした考えをするのは私くらいしかいないのかもしれません。そもそも他人の話をなんでこうも真面目に考えてるんだ。しかも他人の話を「勝手に」憂いて勝手にしょんぼりしているだけ。なんだ傷つきたがりか。感傷に浸るのが趣味です。午前3時付近はけっこう浸れますよ。感傷。おすすめ。

 

 

と、しょうもないことを考えるのが本当にず~~~~~~っとクセになっており。それがもう10年以上続いていますから疲れ果ててしまうことも多々あるのですが最近それの対処として上記のようなどうでもいい思考を「ま、『そういうもん』か!」と切り捨てるといい感じに疲れなくなることに気づきました。

 

そうなんですよね、上記のようなことを考えてもな~~~~~~~~~んにも得なんてなくてせいぜいブログの記事肥やしになる程度ですがそのブログだってやったところでなんにもならないので本当に意味が無いんですよ。ブログ書く暇あったらもっと他にやることあるでしょうに。

 

だからなんでもかんでも『そういうもん』として切り捨てていく。世間のモヤモヤとか人間のヤなところとか不条理とか自分の許せないところとかぜ~~~んぶ『そういうもん』として切り捨てる。考えすぎる人はぜひやってみてください。

 

「そんなことしたら思考停止で生きるみたいでダメになってしまう」と思います?安心してください。『そういうもん』です。みんな意外と思考停止で生きています。必要な時だけ思考を回しています。『そういうもん』なんです。

 

さいきんのインターネットは見ているだけでなんかつかれてしまう。それに対してもなんでだろう?なんて真面目に考えている時もありましたが結局『そういうもん』なんです。考えたところで『そういうもん』なんですよ。

 

『そういうもん』だと受け入れたうえでその『もん』をどうするか。自分はその『もん』をどうするのか。考えるとしたらそこを考えるべきなのではないでしょうか。

 

え、すげぇ自己啓発系の記事みたいになってきてしまった。あれだな、noteで500円くらいで売ればよかったかな。なんかこう実体のない思考の話をするとどうも自己啓発っぽい話になりますよね。これもそういうもん、なのでしょうか。

 

着地点を見失いましたのでこの辺で。

そういうもん思考、おすすめです。

TVアニメ ンマ娘 2んどシーズンを見ま☆すた

1すとシーズン見てからだいぶ間が空いたしゲームも最近ご無沙汰なンマ娘ですが2んどシーズンを見ました

 

何か作品に触れた時はその気持ちを忘れないように形にして残そうという試みを最近行っています。ということで感想をかきますよ

 

つってもいままだ最終回を見てる途中なのですが想いを忘れないうちにいち早く書きます。見ながら書きます。

 

 

ウマ娘とは

馬の擬人化、と一言に表せど。それは単純なことではないでしょう。

単に見た目の要素を取り入れて人型にすればよいか。そんな単純なことでは。

じゃあ他の要素を取り入れようにもわからない。性格とか似せてみるかっつってもわからない。だって馬が何考えてるかなんてわからないから。他人が何考えてるかすらわからないんだから他生物の思考なんてわかるわけないじゃん。

 

じゃあ、ウマ娘とはなんなのでしょう。

馬そのものがただ人の姿になっただけ。きっとそうではないですよね。

私が思うにきっと、それはその馬にかけられた「想い」が結晶となったものなのではないでしょうか。

 

馬ひとりひとりに関わった人たちや場所やレースや。それら全部ひっくるめた思いがあってドラマがある。それをきれいな結晶として削り出して形どる。だからこそ宝石のように輝く。それがウマ娘なのではないかと。

 

そんな輝きをこのアニメを見ながら感じておりました。ひたすらに「想い」の物語だったなぁと。感情って言葉より「想い」って言葉がしっくりきます。

 

ちょっとキメる感じで自分に陶酔しながら文章書いてたんですが1.25倍速のうまぴょい伝説が流れてきて爆笑してしまいぶち壊しになりました。なんなの

 

ダイタクヘリオス

ああいう明るい子がすきなんですよね

学生の頃は長門有希みたいなクールで落ち着いた子が好きだったんですが大人になってからああいう明るくて周りをも明るくしてくれるキャラクターが好きになりました。

 

何故なら、おれが、【†闇の申し子†=ダークネス:ヒューマン=】だから―――

 

すいません、大人になってから元気がない時間のほうが多かったり疲れてしまうことが増えたのでこういう明るい子に励ましてほしいなっていう話です。わかりますでしょ?ダークネスヒューマンとか自称する人間とか明らかにつかれてるだろ

 

ライスシャワー

史実というか当時の時代背景を知らないのですがライスは実際嫌われていたのでしょうか?ガチで嫌われてたのかヒール役としてなんだかんだ親しまれていたもののアニメだから嫌われた事実を誇張したのかどっちなんでしょうか。ちょっとガチで嫌われてた前提で話しちゃいますね。

 

ライス関連で好きだったシーンがあってマックイーンとのレースが終わった後一緒に走ったウマ娘とチームスピカの人たちが拍手をしたわけですけれどもそれに観客が追従「しなかった」んですよね。そこが大好き。もしあそこで観客が追従してたら興ざめでした。

 

あくまで「ヒール」という世論はそのレースひとつで覆るわけではなくやはり一部からは疎まれ続けてしまうかもしれません。が、それでもわかってくれる人はいる。世の中全員が認めなくても、認めてくれる人はいる。

 

そもとして世の中に広く認められる存在なんて稀有なんですよね。インフルエンサーみたいな。なんか最近はインターネットというかSNSが発達しましたんで「広く認められること=存在価値」みたいな思考が強くなっているというかそういう考えを持つ人が増えてきてる気がしますがもとよりそこまで辿り着ける人は少ないでしょう。

 

広く認められることに、世論を読み取ることに、その目がどこを見ているかに気を使いすぎてしまうが故に、身近で支えてくれている存在を見失ってしまう。そして最後には自分すら見えなくなってしまう。ライスはそういう状態になっていたのかもしれません。

 

でも、あの瞬間、あの拍手で気づけたわけですよね。しかも一緒に走ったウマ娘、そして近くで切磋琢磨してきたライバルが。身近にいる人たちはライスを認めていた。世間は知らずとも身近な人たちが知っていた。ライスを知っていた。あそこが13話通して一番グッときました。

 

んん、作品としては別にこんなことを伝えたかったわけではないのかもしれませんが………とにかくあの少数の拍手が個人的にはすごい刺さったんです。よかった。

 

マチカネフクキタル

まじめにやってくれ

 

・でもいちばんすきなの

マチカネフクキタルがいちばんすきなウマ娘です ゲームでもホーム画面に居てもらってます

明るいとはまた別のベクトルではありますがこの子がしゃべるだけでなんか元気になるというか…まあ笑いますよね

なんというかすっごいひたむきというか真っすぐに存在してる感じがすきです

でもまじめにやってくれ

 

 

 

 

いじょうです

 

どうしてダイタクヘリオスがわたしの家にいないのでしょうか?どうして?なんなの?ダイタクヘリオスがいれば生活偏差値もっとあがりそうなもんなのですがどうして?マチカネフクキタルは…なんかいいかな……胃もたれしそう………でもまぁ…こんなこと言いつつ居て欲しゐ也。マチカネフクキタルダイタクヘリオスさん、ウチに来ませんか?お問い合わせお待ちしております。

 

 

「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を見ま☆すた

昨日、つい昨日TVアニメを一気見したのですがもう勢いで映画見てきました

 

TVアニメ版の感想はこちら

gainen34.hatenablog.com

 

 

 

じゃあ適当に感想を羅列していきます

 

 

 

この記事は劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトのネタバレを…含むのでしょうか?どうなんでしょう、わかりませんがまあ心配な人は見ないほうがいいんじゃないですかえ

 

 

 

 

 

 

・演出の暴力

この一言に尽きると思います。

 

 

・音楽

サントラ買いました。劇中歌アルバムも全部買いました。

ついでにTVアニメ版のサントラも買いました。そういうことです。

 

もうちょっと語るならエンドロールで三好啓太さんのお名前が出てきてデケェ声が出そうになりました。ご存知ですか?三好啓太さん。別に隠しているわけではないと思われますのでご紹介しますが「三好啓太」=「ぺのれり」です。そりゃデケェ声も出るでしょ。出してないけど。

 

三好啓太さんの楽曲に限らずもうず~~~~~~~~~~~~~~っと音楽がすごくてすごかったです。どんくらいすごかったかっていうとこ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~んくらいすごかった!すっごくすごかったってことです。

 

 

・ストーリー

もうすごい ほんとに なんて言えばいいのか

 

 

・すいません正直言いますね

言葉が出てきません 語彙力を喪っています 完全に

それくらい素晴らしい作品でした ありがとう

 

 

・いやほんとに

もっとほら、面白かった部分を羅列してさ、感情のメモとして残したかったのですけど、もう、なんか、言葉にすることすら陳腐というか、嫌というか、そうすること自体がもう、正しくないんじゃないかと思ってしまうほどに、眩しかった、この物語は。

 

 

・トマト潰れて草

こわいね

 

 

・急に血が出てきて草

こわかったね

 

 

・急にデコトラ出てきて草

逆にこわかったよね

 

 

・大場なな怖くて草

この人笑顔で写ってた時間より真顔の時間のほうが多かったですよね?

 

 

・ほらね

こういううっすい言葉しか出てこないわけです

 

 

・別にいいんですよ

いろいろ雑多な言葉を並べて考察とか思いとかをありったけ述べたって。でもね

 

 

・もう答えは心の中にあるのです

語る必要もなし。充分染み込んだ。心が答えを知ったから。そこで完結したんだ。

 

 

・だから、ありがとう

この作品と出会えたことに感謝して。

 

 

・ありがとう

この作品に携わったすべての方々。

 

 

・ありがとう

この作品を俺に届けてくれてありがとう。

 

 

・ありがとう

ほんとうに、ありがとう

 

 

 

 

・そうして次の駅へ

また、あの舞台に立つために。

 

 

 

 

ということで感想は以上です。言葉を重ねれば重ねるほど陳腐になっていくので。

ほんとうにありがとうという感情だけしかありません。生きててよかった。

 

 

 

 

またあした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・デスジゴク

最後のほうのいいところでデスジゴクみたいな乗り物出てきてマジで笑いそうになった

普通に荒野を走ってたしカメラワークもホントにデスジゴクのそれで完全にデスジゴクにしか見えなかった

いやあれデスジゴクですよね?どうみてもデスジゴクだってみんな見て欲しいわせめてこのデスジゴクだけでも見に行って欲しいホント

 

「TVアニメ 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を見ま☆すた

最近は深刻なインプット不足、と書くと意識高くてかっこいいんですがまぁ単純に気分が上がらねぇ~~~~~~~~~~って日々が続いていたのでアニメを見ようということになりまして。

 

数ヶ月が経過しました。そう、気分が上がらねぇ~~~~~~アニメ見なきゃ…と思ってから数ヶ月経過したのです。結局アニメ見る気力すら湧かずヴォ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っとしながら生きていました。

 

が、ようやく今日、重い腰を上げてアニメを見ることが出来ました。えらい。とてもえらいです自分。

 

ということで少女☆歌劇 レヴュースタァライトを見ました。感想を雑に羅列していきます。この作品を選んだ理由は特にありません。昨日仕事してたら急に「TVアニメ 少女☆歌劇 レヴュースタァライト、気になるな」と思ったので見ただけです。理由が無さ過ぎて困る

 

 

ネタバレみたいなそれっぽい話をするのでまだ作品を見てないよって方はご注意ください

 

 

・演出がすごい

これホントに毎週放送してたの?って具合の演出凝り具合。単純に作画の安定感もすごかったですが対戦しているとき(あの対戦行為をレヴューっていうんですか?)の演出が回ごとにテーマを持ちながら凝ってたのがすごかったです。個人的に好きなのは野球回の演出です。

 

正直、全編通していつ血が流れるのかヒヤヒヤしながら見ていましたがルール的にダイレクトアタックはアウトなのか血が流れることはほとんどありませんでした

 

 

・音楽がすごい

わたしは音楽には詳しくないのですがとにかく場面場面で流れる音楽があまりにもピッタリすぎるというか緩急の付け方とかがホントにすごかったです。わたしがホントにすごかったですっていうときはホントにすごいときです。つまり語彙力が足りなくなっている時です。

 

「ワーーーーーーーーーーーーーーーーー音楽がよすぎる~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!」と叫びながら試聴していたので通報されなくて本当に良かったです

 

・捨て回がない

先に言っておくと特にお気に入りの回はありません。そして、ハズレ回もありません。すべての回が高水準というイメージです。なんかアニメ見てるとたいてい「いやこの回は結局なんの回だったんすか?」と内なるひろゆきがスタッフに問いかけることが多いんですがこのアニメはそういうものが一切なかった気がします。それわたしの感想ですよね?(?)

 

強いて言えば大場ななの回がちょっと好きです

 

・大場なな

なんかいちばんかわいそうな人だなっておもいました 彼女自身、初回のやり直しはともかくとしてやり直しを重ねるうちにどこかで「自分の行いは間違いだったのではないか」と感じ始めてしまっていると思うんです

でもやめられない。やり直さないことが怖い。知らない未来に進むことが怖い。知っていることだけ知っていたい。ずっとこのままでいいし、このままじゃないといけないし、生きていけない。そんな状況になってしまっていたんじゃないかと思います。勝手に思ってます。とってもかわいそうだと。

 

みなさんにもないでしょうか?なにかアニメを見ようと思ったとき。見たことのない新しいアニメではなく一度見たことのある思い出のアニメを選ぶことが。現にわたしは今回アニメを見ようと思ったときにスタァライトじゃなくてハルヒを見直そうとしていました。

 

もしかしたら新しいアニメは面白くないかもしれない。もしかしたら新しいアニメは好きになれないかもしれない。もしかしたら新しいものは耐え難い展開が待ち受けているかもしれない。もしかしたら新しいものは自分というものを大きく変えてしまうのかもしれない。そんな不安ばかり付きまとって。

 

あのころは新たな「刺激」を求めていたのが、年月を重ねた今、「安心」を求めるようになってしまった。

 

 

 

そう、俺たちは、俺たちが、『大場なな』そのもの、なのかもしれない―――

 

 

 

と思ったのですがモニターに反射した成人独身異常男性を見たら目が覚めました

俺は大場ななではありません すみませんでした

 

 

・ツダケンがしゃべるだけでそれっぽくなるのウケる

ウケんね

 

 

・群像劇がすき

群像劇ってのはいろんな登場人物が主人公たり得る物語というかいろんな登場人物にスポットライトがあたる物語です(たしかそう)

 

主人公主体の物語はその主人公の思想に共感や理解ができないとその瞬間「おわり」になってしまうのですが群像劇だと仮に主人公に感情移入できなくともその他の登場人物に共感できる部分があれば「助かる」のでとてもいいです

 

わたしは【†ダークサイド†~暗黒面(パワー)~】に堕ちている人間なので一般的な主人公の思想に賛同できないとまで言わずとも感情移入しきることができません 何故なら主人公は完全なる「光」の存在だから

 

なのでこういう群像劇は非常に助かります

んで、この作品は群像劇です。だと思います。いろんな登場人物の思考や感情に触れることができます。そういうのがすきですね

 

 

 

・でもやっぱり俺は『大場なな』なんじゃないか?

いけるか………?

 

 

・ちがいました

ほんとうにすみませんでした

 

 

以上がTVアニメ 少女☆歌劇 レヴュースタァライトの感想となります

いかがでしたか?いかがもクソもねーわな

 

総評としてはとってもおもしろかったです

アニメ視聴のリハビリには最適だったのではないでしょうか

というかこの作品がよすぎて次から見る作品のハードルがあがりますね

 

じゃあ寝ます