概念という名の概念

何を書くと思いますか?想像してみてください

おもしろいということだけがアイデンティティだった人

思考のメモです

 

例のブログ、と称するには少し日が経ちすぎましたがあの文章を読んで戦慄しました。件の本質とは違う話にはなりますが、文体があまりにも自分に似ていたのです。

 

とにかく自分は面白いんだぞという主張と周りとは違うんだぞという押しつけ。

文章を客観的に見てみると確かに世間の評価に納得していましました。

 

どうしてあのような、そしてこのような文章になってしまうのでしょうか。それを考えた時におそらくですが自分という存在は面白くないといけない、という危機感にも似た固定観念が存在しているのかもしれません。

 

というのもこれは私の話で件のライターの話ではないのですが小学生時代は周りにおもしろい人間だと評価されていました。今思うとそれは笑いを取っていたというより嘲笑に近かったのかもしれませんが、仮にそうだとしても当時の私はその状況をとても嬉しく思っておりどんどん人を笑かそうとしていきました。

 

そして早めに結論から述べておくとタイトルのような状態になります。成長の過程で何も身に着けることなくただおもしろいということだけがアイデンティティとして残ったわけです。そうなると必死におもしろい人になろうとします。おもしろくない人になるということはアイデンティティを失うということ。それは自分自身を失うことを意味します。

 

だからおもしろくならないといけなかったのです。だから変わったことをして人の目を引いて、嘲笑だとしても笑ってもらわないといけなかったのです。

 

ですが、それには限界があります。本来は人を笑わせるためにおもしろいことを言います。つまりそれは人のためです。しかし私の場合は自分自身の存在のため。どこまでいっても自分のための行動でしかない。そうなるとどんどん独りよがりになる。ユーモアも自分の価値が軸になっていく。俺が面白いと思うものが一番で、それをお前らが笑うべきだ、と。

 

そうなると、終わりです。周りの大人は一応笑ってくれますが本当は面白くないという事実を誰も教えてくれない。そんな義理は無いから。だから正せない。でも誰も面白くないと教えてくれなくて愛想笑いしてくれてる状況をウケてると勘違いしてまた変なユーモアが加速する。勢いがヤバすぎてスピードについていけなくなるノリ。内心、的を得てしまっているから変にツッコミきれない自虐ネタ。笑え、笑えという圧が強すぎるがゆえに聞く側、見る側の反応に択が無い。そして周りは愛想笑いし、以下無限ループ。それを99回くらい繰り返すと誰も手を付けられない最強モンスターが完成します。

 

勘違いしたおもしろさのために最強モンスターになるくらいならふつうの人間でいたいと思いました。

 

といったところで件のブログについて件の記事だけでなく他の記事も読んでみたのですが、意外とクセが控えめでした。何故か件の記事だけが異常に本題から遠回りするような文章だしおもしろくしなきゃ!という強迫観念を感じますね。炎上してることを認識して気が動転してどうにかしなきゃヤバイ!みたいな気持ちで書いてしまったのでしょうか。

 

…いやこれ違うかもしれませんスミマセンこれあれですねやっぱり文章の感性が私と似通いすぎてるのでソウルユニゾンしてるだけですね。たぶん普通の人から見たらほかの記事もぜんぶクセが強いのかもしれませんね。

 

本当に問題なのは今回のようなデリケートな問題の釈明記事という場面でユーモアを出そうとしているという点だと思います。謝罪するにも、謝罪せずに自分の意見を述べるにも、どちらにせよ茶化すような場面ではないはずです。こういう場面で敢えて茶化すことを言うのがユーモアだという主張はボボボーボ・ボーボボの世界観じゃない限り通りません。プロのお笑い芸人だからといって葬式で笑かそうとはしてこないでしょう。

 

適材適所、ケースバイケース。私はやはり件の人とソウルユニゾンしているようで件の通常ブログ記事は嫌いではないです。たぶんこういう堅苦しくない文体が好きな人もいるんじゃないかと思います。擁護する気はありませんが。

 

そろそろ締めようかな、と考え始めたところでハッとします。やはりソウルユニゾンしている。最後の最後に何かしらの冗談とかふざけた表現をくっつけてオチを付けようとするんです。いまどんな冗談をくっつけようかなと一生懸命考えていました。上記の通り文章表現は適材適所ですしこの記事は真面目な記事ではないのでそれ自体は悪いことではないとは思いますが、自分自身の常識を常に疑うということを忘れないためにもこれをもって記事を締めさせていただきます。

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。