概念という名の概念

何を書くと思いますか?想像してみてください

呪印錯誤のエンドレスフォロー

思考のメモです

 

新劇場版は全く見ていないのですが庵野監督のドキュメンタリーをアマプラで見ました。世間で大きく評価されてる作品を生み出したその人を垣間見えることに興味があったからです。

 

(ここから下の話はわたし個人の想像でありご本人がどう思っているかは別です)

 

(そもとして上記ドキュメンタリーを触媒として私の言いたいことを言うだけの記事なのでそこら辺をご了承いただける方だけがこの先に進む資格があります。バッジを8個集めた人だけ通ってください。)

 

(通ったあと扉に向かってのなみのりは大変危険ですのでご遠慮ください)

 

物を作る人間には「これは自分のやりたいことなのか?自分の表現したいものなのか?」という疑念が常について回ります。嘘です。主語が大きかったですね。何かを作る時、私には常にそういう疑念が付いて回っているのです。

 

例えば音楽でいえば思うがままにMIDIを打ち込んだ後にふと前述の疑問が浮かび上がります。流行りに乗せられただけじゃないのか?誰かの真似をしたいだけじゃないのか?そこに自分自身は本当にあるのか?などなど。うるせ~~~~~~って感じですがこの疑問は意外と大事なような気がしていてこれらの声をずっと無視しているといつの日が心がこわれてしまったり創作そのものがつまらなくなってしまうんじゃないかなと思っています。

 

そして、前述の庵野監督はその声を無視せざるを得ない状況に追い込まれていたんじゃないかと勝手に思っています。息抜きに違う作品を作ろうとすればそんなことしてないでエヴァ作れって言われるだろうしエヴァ作っててもはやくエヴァ作れという声が聞こえてくる。地獄でしょ。んでエヴァを作る中で新しいことをしようにも「エヴァらしさ」つまり従来のファンに嫌がられない範囲での新しいことなんてめちゃくちゃ難しいわけで結局息苦しさは解消されない。「エヴァ」という概念はあまりにも強い力で庵野監督を絞めて付けていたんじゃないかと邪推してしまうのです(10000000000000回言いますがこれは私の勝手な想像です)

 

まぁドキュメンタリーのなかで「エヴァをやり直したいとずっと思ってて良いタイミングがたまたま来たから新劇場としてやり直した」みたいなことを仰っていたのでやっぱりちゃんと自分の意志で作ってたのかな、なんて上にいろいろ書き殴ったあとになって思ってるんですが。そうなると上記の話ぜ~~~~~~~~~~~~~~んぶ、パァ!!!!wwwwwwwwwww

 

パァじゃない話しましょうか。最近、とある声優を観測していると普通に本人名義で、特定作品とは関係ない場所に出演しているのに「リアル○○(キャラ名)じゃんwwww」「○○まんまで草」みたいなことを言われているんですね。どんな番組に行ってもキャラクターに関連付けられるようなコメントをされている。まぁいまはそのキャラクターが大変バズっておりますのでわからなくもない。別にオタクのマナーにモノ申す!!!!!!!!フン!!!!!!!!!!!みたいなことをしたいわけじゃないんですが声優本人からしたらそういうのどうなんだろうな~っていうことをぼんやり考えたりしています。

 

上記の声優の話はリアルタイムでわりとバズっている人の話でしたが、過去にバズったことがある人パターンもあり。2021年のいま、10年くらい前にバズった過去キャラクターの話を延々とコメントされている声優を見かけたのです。これはこれで残酷というか「いま」のその人を誰も見ていないような気がしてすごく寂しくなってしまったのです。

 

○○の人、と認識されること。

○○の人、と呼称されること。

それが本人にとってどんな意味を持つのか。

 

私だったらそれは「呪い」のように思えてしまうな~とぽけ~~~~~~~っと考えていました。世間に自分の可能性を限定されているような。そこにいなさい、そう在りなさいと言われているような。もちろんそれをプラスに思える人もいる思うしなんならこんなジュクジュクした考えをするのは私くらいしかいないのかもしれません。そもそも他人の話をなんでこうも真面目に考えてるんだ。しかも他人の話を「勝手に」憂いて勝手にしょんぼりしているだけ。なんだ傷つきたがりか。感傷に浸るのが趣味です。午前3時付近はけっこう浸れますよ。感傷。おすすめ。

 

 

と、しょうもないことを考えるのが本当にず~~~~~~っとクセになっており。それがもう10年以上続いていますから疲れ果ててしまうことも多々あるのですが最近それの対処として上記のようなどうでもいい思考を「ま、『そういうもん』か!」と切り捨てるといい感じに疲れなくなることに気づきました。

 

そうなんですよね、上記のようなことを考えてもな~~~~~~~~~んにも得なんてなくてせいぜいブログの記事肥やしになる程度ですがそのブログだってやったところでなんにもならないので本当に意味が無いんですよ。ブログ書く暇あったらもっと他にやることあるでしょうに。

 

だからなんでもかんでも『そういうもん』として切り捨てていく。世間のモヤモヤとか人間のヤなところとか不条理とか自分の許せないところとかぜ~~~んぶ『そういうもん』として切り捨てる。考えすぎる人はぜひやってみてください。

 

「そんなことしたら思考停止で生きるみたいでダメになってしまう」と思います?安心してください。『そういうもん』です。みんな意外と思考停止で生きています。必要な時だけ思考を回しています。『そういうもん』なんです。

 

さいきんのインターネットは見ているだけでなんかつかれてしまう。それに対してもなんでだろう?なんて真面目に考えている時もありましたが結局『そういうもん』なんです。考えたところで『そういうもん』なんですよ。

 

『そういうもん』だと受け入れたうえでその『もん』をどうするか。自分はその『もん』をどうするのか。考えるとしたらそこを考えるべきなのではないでしょうか。

 

え、すげぇ自己啓発系の記事みたいになってきてしまった。あれだな、noteで500円くらいで売ればよかったかな。なんかこう実体のない思考の話をするとどうも自己啓発っぽい話になりますよね。これもそういうもん、なのでしょうか。

 

着地点を見失いましたのでこの辺で。

そういうもん思考、おすすめです。